意見書 令和4年2月12日 熊本地方裁判所 御中 藤原 久美子(戸籍名:     )  印 第1 DPI女性障害者ネットワークについて 1 はじめに 私は、DPI女性障害者ネットワーク(以下、「当ネットワーク」といいます。)という任意団体の代表をしています。以下、私たちの団体について説明します。 2 発足の経緯 当ネットワークは、1986年、優生保護法の撤廃と障害女性の自立促進・エンパワメントを目指して、障害女性たちのゆるやかなネットワークとして発足しました。認定NPO法人であるDPI日本会議(障害者インターナショナル・ジャパン)があり、私はこの常任委員でもありますが、当ネットワークは、DPIとは別な組織として連携し、活動しています。 3 これまでの活動の概略 当ネットワークは、発足時から優生保護法の撤廃を求めてきました。また、同法を背景とする、障害女性の子宮の摘出をやめるよう、抗議を続けました。とともに、障害女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツ(性と生殖の健康・権利)の実現を求めて、他の女性団体とともに、厚生労働省に意見書を提出するなどの活動もしてきました。 現在、障害の有無や障害種別を超えたメンバーで、国内外に情報発信や政策提言を行っています。以下、主なものを掲げます。 [発行物] ○2012年「障害のある女性の生活の困難― 複合差別実態調査報告書」 ○2016年4月『国連女性差別撤廃委員会の第7回・8回日本政府報告審査に関するロビー活動 障害女性たちがジュネーブへ飛んだ!報告書』 [意見書等] ○2011年東日本大震災を受けて、「あなたのまわりにこんな方がいたら」リーフレット作成 ○2012年9月24日付「出生前診断に対するDPI女性障害者ネットワークの意見」 ○2020年4月30日付 新型コロナウイルス感染拡大下における障害女性の権利と生活の維持に関わる要望書 ○2020年12月1日付「性犯罪における刑事法改正」に障害女性の権利保障を求める要望書 ○2021年2月9日付 行政主導によるトリアージのガイドライン化推進の撤回を求める要望書 ○2021年3月5日付「グロー」及び「愛成会」での性暴力告発を受けての声明 ○2021年8月21日付 NIPT等の出生前検査についての要望書 [国連への働きかけ] 〇自由権規約委員会:レポート提出 〇女性差別撤廃条約:JNNC(女性差別撤廃条約日本NGOネットワーク)レポート作成及び、2015年7月第7・8回事前作業部会、2016年2月建設的対話へのロビイングに参画 〇障害者権利条約:JDF(日本障害フォーラム)パラレルレポート作成及び、2019年9月第1回事前質問項目作業部会へのロビイングに参画 第2 優生保護法下での優生政策から脈々と続く障害女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツの侵害 リプロは、1994年、カイロ国際人口開発会議で合意され「行動計画」に書き込まれました。障害のある人を含む、すべてのカップルと個人が、性に関する健康を享受し、自分たちの子どもの数、出産間隔、出産する時期を自由にかつ責任をもって決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという基本的権利です。しかし障害者とくに障害女性に、リプロは実現していません。国の優生政策によって、長年にわたり、否定されてきたからです。 1 複合差別における障害女性のリプロ侵害 当ネットワークでは、前述のとおり2011年に複合差別の実態調査を行い、「障害のある女性の生活の困難― 複合差別実態調査報告書」を2012年に発刊しました。複合差別とは、女性であり障害者であるというように、社会的弱者が受ける差別が複雑に入り組んでいるような状態のことをいいます。 残念ながら、この社会には性差別が存在し、これを是正することが課題となっています。今も、性の違いによって、教育、就業、昇進、収入など、多くの面で格差が生じ、女性は不利益を受けています。それだけでなく、出産、育児といった、両性がともに担うべき責任を女性がより多く背負う仕組みになっています。健康な子を産み育てた女性は高く評価され、子どもをもたない女性、子どもに障害があった女性は、低く評価されます。こうした差別が続いた結果、女性が自分を無力だと感じたり、意欲を失うことで、性差別の解消はより困難になっています。 障害があり、女性であることは、重複した差別を受け、問題は錯綜し、解決も容易ではありません。ところが、障害女性の複合差別について社会的認識は低く、国は「障害者」という集団をひとくくりにして、性別による格差に注目せず、また、障害女性を「性のある存在」として尊重する対応を怠って来ました。公的な障害者統計に男女別の集計はほとんどないところにもそれが表れています。 とくに、優生思想のもとでは、障害者の性が否定され、性のない人間として扱われます。そうした障害者が性のない存在として扱われた事例は以下になります。 * 施設で障害女性の入浴介助を、当然のように男性職員が行っていた。(20歳代 肢体障害) * かつて国立病院に入院中、女性の風呂とトイレの介助、生理パッドの取り替えを男性が行っていた。女性患者は皆いやがって同性介助を求めたが、体力的に女性では無理だといわれた。トイレの時間も決まっていて、それ以外は行かれない。トイレを仕切るカーテンも開けたままで、廊下から見えた。今も同様だと聞く。(50歳代 難病 肢体障害) * 車イストイレが男性側にしかないときがあり、とても嫌な気分で入ります。(30歳代 肢体障害) * 職場は、男性が私から見える位置で用を足したり目の前で平気で着替えたりする、男性中心の差別的な環境だった。子どもがいたので、懸命に働いた。(30歳代 肢体不自由) * 養護学校で男子の数が多く、男女別の更衣室があるのに男子が女子の所で着替えをすることがあった。体育は当時ブルマーで下着が見えて、生理の時恥ずかしかった。女性だったら自分の体を知るべきだ。学校で男女別の性教育はあったが不十分。しっかり教えてもらいたい。(30歳代 知的障害) * ショートステイで入っていた施設のトイレはドアがなくカーテンのみだった。(40歳代 難病 肢体不自由) * 骨折で入院したとき、視覚障害ということで、ナースセンター横の病室に入れられた。見舞の友人からもう一人の患者は70代の男性と聞き、驚いた。必要があってだろうが、60歳を越えても私も女性。男性患者と同室はいやだ。(60歳代 視覚障害 精神障害) * 理学療法士や車いすの業者は男性の場合も多く、性をまったく意識せずに身体に触ってくるので不愉快だ。(40歳代 難病 肢体不自由) 続けて、リプロが侵害された事例をここに紹介します。 * 十歳代だった63年頃優生手術(不妊手術)を受けさせられ、生理時の激痛やだるさなど不調が出た。二十歳の頃結婚したが離婚。再婚の夫も家を出た。原因は私が子どもを産めないから。(60歳代 精神障害) * 生理が始まった中学生のころ、母親から「生理はなくてもいいんじゃないの」と言われた。生理の介助が必要になるから手術して子宮を取るという意味だった。手術に同意しなかったが、言われただけで嫌だった。自分より年上の人にはよくあったことらしい。(40歳代 肢体障害) * 子どもの頃、母が主治医から「子どもは産めない。妊娠したら流産させる」と指導された。産んだ女性がいると後で知った。十代で別な医師に私が子どもを産めるかを聞くと「子どもねー」とだけ言われ、私は妊娠もできないのだと未来が描けなくなった。(40歳代 難病) * 子宮筋腫がわかったとき、ドクターは子宮を取れば治ると言った。私が「赤ちゃんが産みたい」というと「えっ!!」と驚かれ、それを聞いて私は大泣きした。女である自分を否定された気がした。両親にも同じ反応をされたらと怖くて、言えなかった。(40歳代 肢体障害) * 妊娠して産婦人科の病院に通院していたが「うちでは視覚障害のある人は診ることができないので、他の病院に行ってほしい」と言われた。(30歳代 視覚障害) * 女性だったら自分の体を知るべき、でも誰も教えてくれない。学校も教えてくれない。見直ししてほしい。新しい制度ができてもわからない。正しい情報を流してほしい。(30歳代 知的障害) * 私は遺伝性難聴。難聴の子は生まれてほしくないと言っていた夫は、話し合って今は理解してくれるが、障害児が生まれたら女性に責任が問われるような気がする。(30歳代 聴覚障害) * 妊娠7ヶ月に入ってから夫が自分の両親に手紙で子供が生まれることを知らせると、夫の母から「生ませるつもりか、すぐに始末するように」と手紙が来た。(60歳代 視覚障害) このように障害女性のリプロが無視され続けてきた背景には、次に述べるとおり優生保護法下での国の優生政策が起因しています。 2 優生保護法により全国に行き渡った障害女性のリプロ侵害 既に各地の訴訟においても明らかになっているとおり、優生保護法下において、障害女性は、障害があるという理由だけで、不妊手術(優生手術)を強制されていました。国は優生手術を、“不良な子孫”の出生を防止し理想の社会を実現するための政策として、全国の自治体に広め、積極的に手術を行わせました。 そのような国の政策の中、数多くの障害女性が、当然のことのように不妊手術によりリプロを侵害されていきました。中には、障害者施設への入所にあたり、月経の介助の手間を減らす目的のもと、優生保護法の規定をも逸脱した子宮摘出手術によって生殖の機能を失う障害女性も少なくなかったことが分かってきました。 3 母体保護法下においても障害女性への優生思想が脈々と続いていること 国は、前記2のような優生政策により社会内に優生思想をいきわたらせたにもかかわらず、1996年に現在の母体保護法に改正した際、何ら従前の優生政策の違憲性等の問題について周知せず、優生政策の被害者らへの謝罪もしませんでした。すなわち、優生保護法の問題点やこれまで国が進めてきた優生政策の問題点を国民に明らかにしないまま、ただ法改正だけが行われたのです。 改正後においても、国は、当時は合法であったと繰り返すばかりでした。2019年に一時金支給法(旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律)ができたものの、現在に至っても正面から違憲性に向き合っておらず、十分な補償もしていません。国は、これまで、なぜ改正されたのかの理由についても広く国民一般への広報もないだけでなく、優生保護法によって社会に植え付けられた劣った存在という障害者への偏見を除去するといったこともなかったのです。 ですから、被害を受けた障害女性たちですら、自分たちが受けた手術が本当は違憲だったのではないかということに気付くことができず、被害を訴えることもできませんでした。 このため、優生保護法が母体保護法に変わったあとも、“障害者には性もなく妊娠も出産もない”といった社会内の偏見はそのまま根強く残りました。このことは、当ネットワークの調査にも現れており、障害女性が、性と生殖に関わる教育や、医療、社会サービスの提供を受けられない状況や、性のない存在のように扱われながら、性的に搾取されやすく、リプロを否定されがちである状況が読み取れます。 これらの事例は、前にも述べたように、リプロは性と生殖に関わる事柄は、一人一人の個人の判断に委ねられるべき基本的な人権であって、障害者にも保障されなければならないものですが、優生保護法によって、劣等とされた障害者の性を否定し、軽視する優生思想が、母体保護法への改正後においても未だに社会に深く根を下ろしている状況を物語るものです。 第3 優生保護法から続く胎児の選別 1 優生保護法下における経済条項の胎児条項的運用 1948年に成立した優生保護法は、“不良な子孫の出生防止”を、これから妊娠出産する人の生殖を奪うことで実現しようとしましたが、これに加えて1960年代末に胎児診断の技術が実用化したことから、72年の改正案には、いわゆる「胎児条項」が盛り込まれました。 72年の改正案は、中絶を許す条件から「経済的理由」を削除することで実質的に中絶を禁止して出生数を再び増やす反面、胎児に障害がある場合の中絶を許す条件、すなわち「胎児条項」を加えて、“不良な子孫の出生防止”という目的を強めるものでした。このあからさまな改正については、障害者と女性が強い反対運動を行って、改正は行われずに終わりました。同様に82年にも「経済的理由」の削除が検討されましたが、これも反対運動によって上程されずに終わりました。 しかし、改正は阻止されて「胎児条項」がないにもかかわらず、優生保護法下では、出生前検査を行って「経済的理由」を利用して中絶が行われていきました。全国33の自治体で展開されたキャンペーンの先駆けとなった兵庫県「不幸な子どもの生まれない県民運動」では、当時行われ始めた羊水検査に県独自で予算をつけ、障害児出生の防止策の1つとしており、優生保護法が「不良」と名指した障害者が生まれないように、見つけ出し排除しようとしました。 「胎児条項」を作るべきという意見は、その後も消えることはありませんでした。優生保護法が母体保護法に改正された1996年以降にも、その動きが見られます。1997年2月25日の毎日新聞に、「障害胎児 中絶容認を母体保護法改正要望」の記事が見られます。また、1999年2月28日朝日新聞「『胎児条項』認める見解――母性保護医会・法制委 多胎減数手術も」は、日本母性保護産婦人科医会の法制検討委員会が、母体保護法の改正に関する報告をまとめ、不治または致死的な疾患のある胎児の中絶を容認する、いわゆる「胎児条項」を設けることが含まれていたと報じています。 2 母体保護法下における出生前検査と中絶における経済条項の胎児条項的運用 胎児の障害の有無を調べる検査は技術開発が進み、前記1のような優生保護法下での優生政策は、現在の母体保護法下でも続いています。 出生前検査では、胎児にダウン症等の障害があるかどうかを検査するのですが、この検査結果が陽性と出た後は、ほとんどの人が「経済条項」をつかって中絶をしています。 日本には、人工妊娠中絶を犯罪として処罰する堕胎罪があり、母体保護法の第14条の経済条項は、中絶をしなければならない女性が罪に問われないために必要です。「胎児条項」は、国が障害をもつ胎児を中絶してよいと法律で認めるものですから、作ってはならないと私たちは考えます。 しかし、「胎児条項」がなくても、障害の有無で命を選別する中絶が「経済条項」で今も行われているという現実から、目をそらすことはできません。 3 新型出生前検査(以下、NIPTとする)と優生思想 2013年から行われるようになったNIPTでも、陽性と判断された人は、高い割合で中絶手術を受けています。 ここで「陽性」とは胎児がダウン症候群(21トリソミー)、エドワーズ症候群(18トリソミー)、パトウ症候群(13トリソミー)のいずれかである場合のことを言います。 中絶を選ぶ背景には、様々な要因が考えられますが、前述のとおり国民に障害者は劣った存在とみなす優生思想が根深く刷り込まれてきたことが大きな要因です。また、出産、育児の責任を女性がより多く背負うことも要因です。障害者を排除しようとする社会が、妊娠出産しようとする女性に、障害のある子を産んではいけないという圧力をかけ、検査に、選別的中絶に追い込みます。このような圧力となる優生思想を、なくさなければなりません。子どもをもとうとする人も、生まれてくる子も、障害のあるなしにかかわらず尊重され、育てる社会的支援がある社会を作らなければなりません。何時、何人子どもを持つか持たないかを自ら決定するリプロは、そうした社会的条件が整った上でこそ、実現します。 2021年5月に「NIPT等の出生前検査に関する専門委員会報告書」が出されました。厚生科学審議会のもとで検討をしてきた専門委員会によるものです。「専門委員会」とその「報告書」は、いくつかの点で、それ以前と異なる特徴があります。一つは、国の関与です。これまで日本産科婦人科学会など、医師らの団体が出生前検査のあり方を決めてきたのに対して、「専門委員会」は厚生労働省が関与しました。また、妊婦に対する情報提供のあり方が変わりました。1999年以降「医師が妊婦に検査の情報を積極的に知らせる必要はない」とされてきましたが、これが「誘導とならない形で、情報提供を行っていくことが適当である」へと変わりました。 この報告書に対して、当ネットワークは、8月21日付けで「NIPT等の出生前検査についての要望書」を出しました。要望書では、妊婦に提供される情報に、障害を正常からの逸脱とか望ましくないものと捉える視点を脱し、その障害を生きている当事者と、育てている親の経験を盛り込むことなどを求めました。もっとも強調したかったのは、報告書にも書かれている「ノーマライゼーションの理念を踏まえ、出生前検査をマススクリーニングとすることや、推奨することは厳に否定されるべき」を実現することです。 第4 国や自治体によって明かとなった障害者差別と優生思想 1 現在存在する様々な障害者差別の背景に優生思想があること 差別禁止条例づくりの先駆けとなった千葉県「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」制定にあたって、平成16年(2004年)9月から平成16年12月までに寄せられた「障害者差別に当たると思われる事例」を取りまとめたもの(応募状況 : 総件数 769件)によると、次のような様々な場面で障害者差別が挙げられています。 ・教育 213件     ・不動産の取得・利用 25件 ・医療 86件      ・呼称 11件 ・サービス提供 77件  ・司法手続 9件 ・労働 73件     ・所得保障 8件 ・建築物・交通アクセス 38件   ・参政権 7件      ・福祉 37件 ・その他 154件     ・知る権利・情報 31件  また、内閣府が行っている世論調査においても、差別や偏見の有無について、「あると思う」人の合計が、平成19年調査では83%、平成24年調査では89.2%、平成29年調査では82.9%と極めて高い数字が出ています。 このように、母体保護法に改正された1996年以降も、障害者はあらゆる場面で差別を受け続けています。2006年に国連障害者権利条約が成立、2014年に日本も批准し、2016年4月より障害者差別解消法が成立しましたが、偏見や差別は非常に根深いと感じています。 そこには、障害ゆえにできないことを「役に立たない」「お荷物」「無能」とする優生思想があり、こうした人々には義務を果たせないのだから、何も言う権利はないとする「権利」意識の誤った認識があると考えられます。これはやはり、前述のとおり長期間国全体に根付かせられてしまった、国の優生保護法下での優生政策によって、障害者への偏見が根深く残っているからです。 2 コンフリクト(地域住民の反対運動)と優生思想 国の優生保護法下での優生政策により、個々人がそれぞれに優生思想を抱いているという状況から、社会全体や障害を持たない大多数の地域住民の共通認識として障害者の人格自体を軽視したり、障害者は社会に危害を与えかねない存在であるといった優生思想が蔓延する状況になったことにより、現在も数多くの地域住民とのコンフリクトが生じています。 例えば、障害者グループホームの開設への反対運動です(『障害者グループホーム開設への住民の反対相次ぐ』NHKニュース 1月26日 7時7分 国は、施設などで暮らす障害者に地域のグループホームなどに移って生活してもらう「地域生活移行」を進めていますが、こうしたグループホームに対する周辺住民の反対運動が、過去5年間に全国で少なくとも58件起き、建設断念に追い込まれるケースもあることが、NHKの取材で発覚しています。 また、国は、障害のある人に地域の一般の住宅で暮らしてもらう「地域生活移行」を進めていて、各地でグループホームやケアホームの開設が進められていますが、これについても周辺住民から反対運動が起きるケースが全国で相次いでいます。 NHKが全国の都道府県と政令指定都市を対象に、過去5年間に起きた反対運動の件数を尋ねたところ、少なくとも58件に上ることが分かりました。 また、精神障害がある人と知的障害がある人の2つの家族会にも同様の調査を行ったところ、全国で合わせて60件の反対運動が起きていることが分かりました。 このうち家族会の調査では、反対運動を受けて、予定地での開設を断念したり別の場所への変更を余儀なくされたりしたケースが36件に上っていました。この中では、精神障害者のグループホーム建設に対して、住民が反対の署名を集めて自治体に提出したケースや、障害者に差別的なポスターを予定地周辺に掲示したケース、さらに、住民説明会で「障害者が住むようになると地価が下がる」と訴えて建設反対を主張したケースなどがありました。 障害者差別解消法の付帯決議では、グループホームの開設にあたって周辺住民の同意は必要ないことが明記されましたが、障害者が地域で暮らすために周辺住民との関係が大きな課題になっていることが浮き彫りになっています。 このように「(障害者以外の)住民」対「障害者」という構造になってしまっていること自体が、優秀な人間と劣等な人間に区分けした優生保護法下における優生政策の結果です。 第5 さいごに ―私自身の障害者差別や中絶勧奨等の体験について 1 私が障害者になるまでのこと 1981年頃、私は十代の時にⅠ型糖尿病になり、以降インスリンを自己注射しています。思春期の多感な時期、このような病気になって自分は結婚できるのか、子供が産めるのかとても不安でした。当時、母親や周囲からは「早く結婚して、子供を産み育てるのが女の幸せ」と言い聞かされ、8歳の時に父親を亡くしてから、働く母親の代わりに家事をすることも、よい妻になるためには良い経験になると思って、励んできたからです。医者に尋ねると「インスリンで自己コントロールさえできていれば、結婚も出産もできる。」とのことであり、当時の私はその言葉に安心しました。 1998年頃、ある日突然目の前に赤い光が見えました。合併症である網膜症による出血です。みるみるうちに目の前が真っ暗になって失明しました。当時はもうおしゃれもできなくなる、好きな本も読めなくなる、と絶望して毎日病院のベッドの上で泣いていました。 1999年頃、手術をして、右目は視力が少し残り、弱視となりましたが、分離教育で育ったこともあり、身近に障害のある人はおらず、とにかくわからないことばかりで、不安しかありませんでした。退院後は一人暮らししていたアパートには戻らず、ひとまず実家に帰りましたが、家族は腫れ物に触る感じで、何もさせてくれなくなりました。 そしてその後、障害者になってからは結婚や子どもの話を一切言われなくなりました。障害のない時はずっと言われていたのに、ぱったりとそれがなくなったのです。 2 障害者差別との出会い 2000年頃、私は生活訓練のために大阪にある日本ライトハウスというところに入所したのですが、そこで視覚障害のあるカップルが結婚しようとすると、大抵、男性側の両親から反対を受けるという話を聞きました。 男性側の母親が、「妻に視覚障害があっては、自分の代わりに息子の世話をできないだろう」というのが理由のようでした。 私は、元々は障害者ではなかったわけですが、障害者になったということでこんなにも結婚や出産が困難になるのかと衝撃を受けるとともに、障害者に対する偏見や差別の根深さを知ったのです。 私は、大阪ライトハウスで半年ほど生活訓練を受けた後、障害があるからこそできるピアカウンセラーという仕事に魅力を感じ、現在所属している『自立生活センター神戸Beすけっと』にボランティアとして関わるようになりました。そこで私は、「重度障害者でも地域内で生活していくことができる、その姿を見せるべきなんだ」という当時の代表のもと、社会モデルを学びました。 しかし、それと同時に、実際の社会があらゆる面で障害者がいることを前提としていないことや、社会内における障害への無理解、差別や偏見に直面しました。余暇のアトラクション利用一つとっても、頑張って主張しない限り叶わないという現状に、社会から排除されているという実感を持たざるを得ませんでした。 3 妊娠 ―中絶の勧め 2004年、私はボランティアしていた「Beすけっと」に雇われるようになり、さぁこれからというときに、妊娠がわかりました。当時40歳でした。 私は、早くに子どもを産んだ妹と比べて、周囲から一人前の人間として扱ってもらえていない、全く信頼を得られていないと感じていたこともあり、その時は何としても産みたいと思いました。 私のパートナーも「産んでほしい」と言ってくれました。 しかし、「障害児が産まれるのではないか?」「自分にも障害があるのに、育てられるのか?」という理由で、医者からも、親族からも、中絶をすすめられました。私という一人の女性であることに変わりは無く、人格は何も変わっていない、ただ視覚障害者になったというだけなのに、障害のない時は「産め」と言われ、障害があったり高齢であったりすると「産むな」と言われます。それでも「産みたい」というと、医者も応援すると言いながら、「では、この子はいったん流して、血糖コントロールをもっと整えてからにしましょう」と言って結局中絶を勧められました。 妊婦に障害があるから出産をやめておくよう勧める、という流れは、まさに優生保護法下での優生政策で根付いたものと同じです。 4 妊娠継続そして出産 ―出生前検査の勧め 私は、中絶することは考えられず、そのまま継続を決めました。 それでも、同じ病院の別の医者から、パートナーと2人で呼び出され、出生前検査(羊水検査)を勧められました。つわりがひどくてふらふらの中、検査の説明をされて「もう週数がぎりぎりだから、できるだけ早く決めてくれ」と決断を求められます。その時言われたのは「妊婦が35歳以上の方には全員お知らせしている。男性は何歳でも関係ない。」とのことでした。これでは、障害児が生まれるのは、女性の責任と言われているようなものです。検査を受けて陽性だったら?と聞くと、「それはお二人で決めていただいたらいいです。中絶する人もいますし、そのまま継続する人もいます。」ということでした。障害児を産んだらどうすればいいかという情報は全くないのです。 このような状況で検査を勧められれば、「どのような子であっても(周りには頼らず)私が責任もって育てる!」と強い意思を持っていない限り、検査そして障害があるなら中絶…という流れに流されてしまうと感じました。 私は出生前検査を断りましたが、「医者の勧めを断ったのだから、もし障害児が生まれたら、「わかってて産んだのだから」と言われて、誰にも助けてもらえないのではないかと思うと、より不安な思いが募りました。説明されるだけでしたが、こんなに気持ちが落ち込むものだとわかりました。でも私のように検査を断った人というのは、出生前検査に関する調査には数字に上がらないのです。検査を受けて、それでどうしたか?という数字が大きく世間に公表されるのです。ほぼ100%が中絶を選んだという数字は、高く出て当たり前で、この検査は女性が必要としているのではなく、検査を勧めたい企業や医者のためだということが、この数字の取り方からしてよくわかります。 妊婦検診でエコー検査をするたびに、「異常はないですよ」と言われることも、障害者である自分自身を否定されているような気持がしていました。そんな私のお腹にいるというだけで、生まれてくることを躊躇されてしまう。いくら社会モデルという考え方があっても、まだまだ障害者への理解がないこの社会に、この子を生み出すことは本当に幸せなのか?と自立生活センターに勤めていた自分でも、気持ちが揺らぎました。 私は元気な子供を産むとは自分でも考えられず、育児用品を見ることもつらかった妊娠期を過ごしました。毎日毎日つわりに苦しみながら、子供と一緒に死にたいと考えていたのです。 2005年7月に女の子を出産し、そこから慌てて育児用品を調達しました。 5 以上のとおり、私は、私自身に障害があるがために、親族から出産を反対され、医師からも何かと理由をつけて中絶を勧められ、妊娠継続の意思を伝えてもなお、出生前検査を勧められる、胎児の障害があった場合の中絶を検討させられるという体験をしました。 それにより、私は、障害のある自分自身の尊厳を傷つけられるとともに、出生前検査や中絶を受けなかったという自らの判断への責任を追及されるおそれから、まだ子どもが生まれてもいないのに精神的に追い詰められてしまいました。 私に中絶やその前段階としての出生前検査が勧められた理由に、「経済的理由」などありません。ただひたすらに、私あるいは胎児の「障害」が理由です。 私の経験は、まさに、前述したとおり、国が推し進めた優生保護下での優生政策が現在も生きているということを示すものだと思います。 6 私は、出産後育児をする中でも、障害者福祉の制度が、いかに障害者の育児というものを想定していないかということを痛感しました。 障害児へのケアについては、法律がありますが、「障害者が子どもをもち、育てる権利」については、現在も、どこにも書かれていないのです。 子どもを持つ障害者への育児支援が障害者総合支援法に基づく障害者福祉の中に位置づけられていないのは、障害者が子どもを産み育てていくといったこと自体が、優生思想が根深く残っている現状では、依然として、想定外であるからだと思っています。 国の優生保護法に基づく優生政策は障害者の子どもを産み、育てることについて自らの意思で決定するというリプロダクティブ・ヘルス・ライツ(生と生殖の健康・権利)の侵害行為であり、同時に障害者を差別して、障害者に対する偏見を植えつけました。そのことが国の現在の福祉政策の中に反映しているのではないでしょうか。 私は、障害をもつ女性が妊娠出産することや子どもを育てること、そして障害をもつ子どもが育っていくこと…それらが全て当然のこととして社会の中で受け入れられ、歓迎されることを願ってやみません。 7 おそらく、現在の社会においても、多くの国民は、優生保護法下での優生政策で声高に叫ばれていた「障害=不幸」という考えを有しているでしょう。近年は、高年出産の増加等により何らかの障害をもつ子どもが増えているとか、高齢者を含む障害者人口の割合が増加しているとか、国の障害福祉サービス予算が増大しているとかいった指摘もあり、社会にとっても個人にとっても、「不幸な子は生まれない方がよい」という考えがむしろ強まっているようにも思われます。 私自身、障害のない時は周囲に障害者がいなかったこともあり、「障害はあるより、ないほうがいい」と思って生きてきました。そのため、視覚障害者となってすぐの時は、できないことばかりを考えて、今後の人生に希望を持てませんでした。けれど、目が見えにくいことは不便だが、音声の出るパソコンや携帯電話を使うことでカバーできたり、不便さにはある程度慣れてきました。日本にいるときは当たり前のものが、海外に行ったときになくても、それなりに工夫して慣れていくのと同じような感覚だと思います。 私は人生の約半分以上を、障害のない女性として生きてきましたが、障害のない女性が受ける抑圧も、障害者が受ける抑圧も、どちらも比べることができないほど、大きな、そして残念なことに対立する関係に立たされてしまうような抑圧がかかっているとを、今、「障害のある女性」として感じています。障害のない時も、当然辛いことや悲しいことはありました。そして障害者となってからも、もちろん辛いこと悲しいこともありますが、楽しいこと、幸せに感じることもたくさんあります。つまり障害のあるなしは、幸か不幸かにあまり関係ない、というのが両方の立場を経験した私の思いです。 ではどうしてこれまでお伝えしてきたような生きづらさがあるのかというと、それは目が見えにくいからではなく、「見えないから間違える」とか「できない」「かわいそう」と決めつけられ、その場から排除されたり、機会を与えられないことで力を奪われてしまうからです。 障害者に育児はできない、とよく言われますが、では障害のない人は、たった1人で子どもを育てることができるでしょうか?なぜ障害者だけが、「自分でできるのか?」と問われなければいけないのでしょうか? ネット記事の中傷で「障害者に育てられた子どもはロクな人間に育たない」とか「子どもが苦労する。かわいそう」と言われましたが、私たち障害者の育児がどのようなものか、知らない人たちが勝手に想像して、決めつけているだけだと感じます。 娘がまだ2,3歳くらいの頃、「ママ、こんなに大きなうさぎさんがいたんだよ!」と興奮して話してくれました。おそらく娘は自分の手を広げて大きさを表したのだと思います。けれど私がその大きさを理解していないことを察して、娘は私の両手を取って広げることで、その大きさを示したのです。 子どもの頭の柔軟さに驚かされたのですが、生まれた時から私と接してきた娘は、例えばカナを読めるようになったら漢字を読み飛ばして読んだり、そのうちに読める漢字も増えてきて、その成長の過程で、その時自分にできる精いっぱいの知恵を使って伝えようとしてくれました。「障害があるからやってあげないといけない」というのではなく、目の見えない母親に自分の感動を伝えたい、一緒に楽しみたいという思いが、こうした工夫を生み出していくのだと感じるのです。私の娘が特段優れているというのではなく、他の子どもたちも同様だと思います。 自然に当たり前のことをしていることを、周囲は、「親の面倒を見てかわいそう」だと勝手に評価するのです。そのような偏った捉えられ方が、私たちを苦しめているのです。 東日本大震災の時、「受援力(じゅえんりょく)」という言葉が話題になりました。   うまく援助を受けることができる人は、災害からの復帰も早かったけれど、全て自分だけで解決しようとした人の多くは孤立し、最悪の場合自殺に追い込まれたとのことです。 私たち障害のある人は、障害のない人より、より多くのサポートを必要としています。そのため、誰かにサポートを求めることが「当たり前」なので、育児の時も災害の時も、ごく自然に受援力を身に着けているのです。 私は視力の大部分をなくしたことで、そうした受援力だけでなく、得たものもたくさんあります。ピアカウンセラーというやりがいのある仕事に就き、障害女性の複合差別の解消という大きな目標に向けて、当事者の立場で関わることができ、その中で豊かな人間関係を築いてきています。 繰り返しますが、障害者が生きづらいのは、目が見えないとか耳が聞こえないからということ自体によるものではなく「不良な子孫」という優生保護法の優生条項が、人々の意識の中に定着してしまい、それによる差別や偏見に日々晒されているからに他なりません。 そのための第一歩として、国には、この訴訟を通して、正面から優生政策の過ちを認め、障害女性のリプロや、出生前診断、経済条項による中絶の問題等現在も残る優生政策の問題に取り組んでほしいと考えています。 以上