七生養護学校事件 知的障がいのある子の性教育 伊藤 敬史 T 事件の概要 1 学校 都立七生養護学校(以下「本件学校」)は,小学部・中学部・高等部からなる知的障害のある子を対象とした養護学校でした。七生福祉園が隣接しており,生徒の約5割は福祉園から通学していました。 2 「こころとからだの学習」の実践    平成9年,校内で生徒同士が性交渉をしていたことが明らかになりました。これを契機に,校内調査が始まり,他の生徒の間でも性的な問題行動のあることが次々と明らかになりました。 その背景には,幼児期から施設に預けられるなどの厳しい成育歴を持つ子ども達が,「また捨てられるのではないか」という緊張感から周囲の関心を引くために問題行動を起こしたり,「生まれてこなければよかった」という悩みから自傷行為をしたりするという現実がありました。また,障害のある子どもたちの中には,性被害に遭っても「優しくしてもらっている」としか認識せず,そのまま性被害に遭い続けてしまう例もありました。 このような状況に対処するため,性の問題を含めた学習活動全体を全校的に見直し,子どもたちの自己肯定感を育てることに重点をおいた教育「こころとからだの学習」(保健等の授業)が行われるようになりました。それは,教師が父母や福祉園の職員と丁寧に意見交換をし,個々の子どもたちの個性や成育環境に配慮しながら,1人1人に自己肯定観を育むための教育実践でした。 その実践にあたり,知的障害のある子にもイメージしやすいように,工夫を凝らした教材が使用されました。 例えば,「子宮体験袋」は,縫い合わせたシーツの奥に湯たんぽを入れて心地よい胎内を表し,シーツの出口に至るまでの所々にゴムを入れて通りにくくして,中に入った子どもが外に出る時に,出産時の大変さを体験できる教材でした。この教材を使った授業では,シーツの中に入った子が外に出る時に,周囲の子も「がんばれ,がんばれ」と応援し,出てきたときにはみんなで喜び合うという姿が見られました。このような体験を通じて,生徒に「あなたはみんなに祝福されて産まれてきた大切な存在なんだ」と伝えるのが目的でした。 また,「からだうた」は,頭から足までの体の各部位を自分で触れながら歌い,自傷行為をしたり,性器をおもちゃのようにする子どもたちに,「自分の体はすべて繋がっているんだ」,「どの部分も大切な体の一部なんだ」と自覚してもらうことを目的としていました。    こうした教育は,平成14年度までは東京都教育委員会も含む各方面から高い評価を得ていました。 3 都議会での質疑    平成15年7月2日,都議会において,T都議が,「ある都立養護学校の教諭は,小学部の児童に『からだのうた』を歌わせている」として,本件学校の教育実践を非難し,都教委に対して,教師に対する直接の指導等の「毅然とした対処」をするように求めました。    これに対して,Y教育長は,「ご指摘の歌の内容は,とても人前で読むことがはばかられるもの」等と述べ,「今後このような教材が使われることのないよう…強く指導して」いく旨を答弁しました。 さらに,I都知事も,「異常な信念を持った教諭」と非難し,「教育委員会が今以上にアクティブに活躍していくことを期待しております」等と答弁しました。 4 都議らの視察・教材の持ち去り    同年7月4日,Tら都議3名及び都教育庁副参事らは,本件学校に赴き,視察と称して,保健室に立ち入り,教材類を戸棚から引っ張り出して写真を撮影するなどし,教材を持ち去りました。 その際,都議らは,養護教諭らに対し,大声で,「あなた『からだうた』を宴会で歌えるんですか。感覚が麻痺しているよ」などと非難しました。また,養護教諭がどの教材を持ち出すのかを教えて下さいと尋ねると,都議らは,「馬鹿なことをいうな。俺たちは,国税と同じだ」,「このわけのわからない2人(養護教諭)は出ていってもらってもいいんだ。」などと罵倒しました。 このやりとりの最中に保健室に入室した本件学校の生徒らは,養護教諭らが都議らにいじめられていると感じて,著しくおびえてしまったほどでした。 5 その後の「こころとからだの学習」の破壊    同年7月9日,都教委は,約37名の指導主事を本件学校に派遣し,教師全員から性教育実践について「事情聴取」し,「調書」を作成しました。    7月23日,都議らは,本件学校から持ち去った教材を都議会談話室で「都立七生養護学校で使用されていた不適切教材」と題して公開する「展示会」を行いました。人形は下半身を露出させた異常な姿で並べられ,本件学校でどのように扱われていたかの説明は一切ないまま展示をされました。    7月29日,K都議の働きかけにより,都教委教育長決裁として「学校経営アドバイザー」要綱が策定され,8月1日より本件学校に1名の「学校経営アドバイザー」が配置され,本件学校における教師らの行動の監視が始まりました。    9月1日,都教委は,本件学校に対し通知を交付し,1週間ごとの授業案(週案)を管理職に提出することとし,管理職が事前に授業内容につき指示を出すようになりました。教師らが作成していた年間指導計画は,大幅に変更させられました。    9月11日,都教委は,こころとからだの学習を認めていた前校長(前年度まで本件学校赴任)を降格処分,教員19名について口頭による厳重注意を行いました。後日,上記学校経営アドバイザーは,職員会議において,「前校長に協力した教員は現校長と行動を共にできないはずである。自らの出処進退を考えるべきである。」などと発言しました。 9月17日,都教委は「一部の都立養護学校が,不適切な性教育を実施していた」として,「都立盲・ろう・養護学校における適正な性教育の実施について(通達)」を都立盲・ろう・養護学校長に発しました。    11月14日付で,本件学校内で「今後の性教育の指導について」と題する文書が作成されました。これにより,従前の性教育と比べると,指導時間は大幅に短縮され,ペニス,ワギナ,性交といった言葉の使用が事実上禁止されたほか,人形や模型等を用いた指導を行うことが禁止され,図等の平面教材についても使用が著しく制約されるようになりました。    平成16年4月,本件学校の教職員の約3分の1が転勤させられました    その結果,本件学校の教師,保護者,生徒と一体になって試行錯誤で作り上げてきた「こころとからだの学習」ができなくなりました。 6 東京弁護士会の人権救済手続(警告) 平成17年1月24日,東京弁護士会は,都教委に対して,人権救済手続において,本件学校の教員に対する厳重注意には子どもの学習権及び教師の教育の自由を侵害した重大な違法があること等を認定し,その撤回や教材の返還等を求める警告を出しました。 7 訴訟 平成17年5月,本件学校の教員29名,保護者2名が原告となり,東京都,都議3名等を被告として,東京地方裁判所に,慰謝料,教材返還等を求める訴訟を提起しました。 U 判決要旨 1 東京地裁平成21年3月12日判決(裁判所ウェブ掲載) 1審の東京地裁は,都議3名及び東京都に対し,損害賠償を命ずる判決を下しました。本判決は,次の3点において,教育裁判史上,画期的な判決と評価できます。 @ 都議らの視察時の言動につき,侮辱による不法行為を認めるとともに,「政治家である都議らがその政治的な主義,信条に基づき,本件養護学校の性教育に介入・干渉するものであり,本件養護学校における教育の自主性を阻害しこれを歪める危険のある行為として,『不当な支配』(註;旧教育基本法10条)にも当たるというべきである」と認定したこと A 「被告都議らによる本件視察に同行した被告都教委の職員らは,このような都議の『不当な支配』から本件養護学校の個々の教員を保護する義務があった」と認定し,都議らの政治介入を放置したことに対し,東京都の保護義務違反を認めたこと B 「厳重注意」は一種の制裁的行為であることを認定するとともに,都教委が教員に対し教育内容を理由として制裁的取扱いをするには,事前の研修や助言・指導を行うなど慎重な手続を行うべきとして,そのプロセスを欠いた「厳重注意」を裁量権濫用により違法と認定したこと 2 東京高裁平成23年9月16日判決 2審の東京高裁は,双方の控訴を棄却し,1審の判断を維持しました。1審判決の上記Aの点についても,あらためて「東京等は,教員に対し,・・・旧教育基本法10条2項の目的・趣旨に従い,教育の公正,中立性,自主性を確保するために,教育に携わる教員を『不当な支配』から保護するよう配慮すべき義務を負っているものと解すべきである」と判示されました。 3 最高裁平成25年11月28日決定 最高裁は,双方の上告を棄却して,1,2審の判断を維持しました。 V 本判決の意義〜教育の現場性 旧教育基本法10条(本件は改正前の事件なので,その適用を受けます)の定める教育に対する公権力の「不当な支配」の禁止は,“教育の現場性”(自主性)の尊重を趣旨としています。本件は,その趣旨に基づき,障害児教育において尊重されるべき“教育の現場性”が問われた裁判でした。 障害児教育の現場が抱える問題は,子どもの成育歴,家庭環境,障害の程度等の様々な要因に根ざしているだけに根深く,切実です。そして,これに向き合う教師たちは,子どもたちとの直接の人格的接触を通じて,何をどう伝えるかを悩み,教育をしていました。それは,「性教育」という言葉では片付けられない,「生」のための教育だったといえます。 本裁判では,1審及び2審を通じて,多数の当事者の尋問が行われただけでなく,口頭弁論期日では毎回数十分の時間をとって原告の教員や保護者が意見陳述を行い,“教育の現場性”を物語る具体的な事実を伝え続けました。 その “教育の現場性”について,1審判決が以下のように判示して,その判断が高裁,最高裁と維持されたことは,極めて重要な成果であると思います。 「性教育は,教授法に関する研究の歴史も浅く,創意工夫を重ねながら,実践実例が蓄積されて教授法が発展していくという面があり,教育内容の適否を短期間のうちに判定するのは,容易ではない。しかも,いったん,性教育の内容が不適切であるとして教員に対する制裁的取扱いがされれば,それらの教員を萎縮させ,創意工夫による教育実践の開発がされなくなり,性教育の発展が阻害されることにもなりかねない。性教育の内容の不適切を理由に教員に制裁的取扱いをする場合には,このような点についての配慮が求められる。」 〔参考文献〕 (1)児玉勇二「性教育裁判―七生養護学校事件が残したもの」岩波書店,2009年 (2)編集委員会「知的障害児のための『こころとからだの学習』〜七生養護学校性教育裁判で問われていること」明石書店,2006年 (3) 金崎満「検証 七生養護学校事件〜性教育攻撃と教員大量処分の真実」群青社,2005年 (4) 刊行委員会「七生養護学校の教育を壊さないで・日野市民からのメッセージ」つなん出版,2004年