2019年11月16日 第4回障害法学会研究大会 優生思想と憲法 金子 匡良(法政大学) 1.はじめに 1-1.優生思想とは ・辞書類には「優生学」という項目はあっても、「優生思想」という項目は少ない。(exc. 日本歴史大事典(小学館)) ・優生思想を「優生学的な考え・政策を是とする考え方」と捉えれば、次の要素がその中核的内容と考えられる。 ●優生思想の5要素  @人間の優劣二分化 人間には「優れた人間」と「劣った人間」がいる。  A優劣の識別可能性 両者は客観的に識別可能である。  B識別基準としての遺伝形質 両者の識別基準は、主として遺伝形質であるが、その他疾病、障害、犯罪傾向等も含む。  C優生政策の必要性 「劣った人間」および「劣った人間」が有する劣悪な遺伝形質は、政策的に減少・消滅させなければならない。 D目的としての社会ダーウィニズム+社会防衛 優生政策を実施する目的は、人類社会の進歩と安全の確保である。 ・@Aは多くの差別思想に共通する思考様式。優生思想は、差別思想のうちBの要素を特に強調し、公益のためにその政策的実現を訴える(CD)という特徴を有する。 1-2.憲法学者の悔恨 ・ハンセン病元患者をめぐる一連の訴訟は、憲法学者に悔恨の思いを生じさせた。 「・・・憲法学者の大半は、・・・人権論にもっとも救済を必要とする人々への致命的な死角があることについて、ハンセン訴訟の新聞記事等に接するまで自覚していなかった。・・・旧優生保護法についても、憲法学が率先して問題提起をしたというわけではない。・・・このような大きな憲法問題が、もっぱら障害当事者の運動と政治によるその汲み上げによって実現され、憲法学の内的視点からの理論的援護射撃を伴わなかったのは残念というほかない★1。」 「筆者は、ハンセン病者に対する言語を絶する国家の差別=撲滅政策に無関心であり続け、無関心という差別意識を持ってしまった者として、自らの差別意識と責任とを問い返し」てきた★2。 ・なぜ憲法学(者)は、ハンセン病元患者への人権侵害を、そして、その背景にある優生思想の問題性を等閑視してきたのか? 2.断絶と連続 ― 憲法は変われど優生思想は変わらず 2-1.憲法の変化と優生思想の継続 【明治憲法下】 ・1907年:癩予防ニ関スル件、1931年:癩予防法  ⇒ ハンセン病患者の隔離収容、断種手術(ただし法的根拠なし) ・1940年:国民優生法 ⇒ 遺伝性疾患の素質を有する者への断種手術 ・明治憲法下の法制度  (a)天皇が恩恵として与えた臣民の権利  (b)自由・平等保障の不徹底、社会権の不存在  (c)法律の留保と公共の安寧秩序による権利制限  (d)身分制とイエ制度に体現される家柄・血筋へのこだわり  (e)徴兵制・産業構造が要請する身体的能力の充足 【日本国憲法下】 ・日本国憲法の制定がもたらした変化  (a’)自然権的人権観の採用 ⇒ (a)の否定  (b’)自由権・平等権・社会権の保障、行政救済制度・司法救済制度の整備 ⇒ (b)の解消  (c’)公共の福祉による権利制限 ⇒ (c)の緩和、しかし残存  (d’)身分制・イエ制度の廃止 ⇒ (d)の制度的解消、しかし家柄・血筋意識は残存  (e’)徴兵制の廃止 ⇒ 価値基準としての「戦力」の否定、しかし「生産力」基準は残存 ・1948年:優生保護法  ⇒ 断種手術の対象拡大(e.g. ハンセン病患者、非遺伝性疾患) ・なぜ日本国憲法のもとで優生政策が拡大したのか? ⇒ (a)→(a’)、(b)→(b’)の変化では優生思想を排除し切れず、他方、(c)(d)(e)の残存が優生思想を維持・強化。 ⇒ (c)(d)(e)の残滓を払拭し、(a')(b’)を強化・促進していけば、優生思想を排除できる? 2-2.「自由の国」における優生思想 ― Buck事件判決 ・しかし、戦前、(a’)(b’)が成立していた国家においても、優生思想は是認されていた。 ◇Buck事件連邦最高裁判決★3 ・ヴァージニア州優生不妊手術法(Virginia Sterilization Act of 1924)に基づき、州立障害者収容施設に収容されていたキャリー・バック(Carrie Buck)に対して、「精神薄弱」(feeble-minded)であることを理由とした不妊手術の実施が決定されたため、キャリーの後見人が同決定の取消を求めて訴えた事件。優生不妊手術法が合衆国憲法修正14条の定める法の適正手続の保障や法の平等の保障に反するか否かが争われた。一審巡回裁判所、二審州控訴裁判所ともにキャリーの訴えを退けたため、連邦最高裁に上告★4。 ・ホームズ判事による法廷意見は、州優生不妊手術法が憲法に反するものはないことを述べた上で、次のように優生学的な不妊手術は社会的に正当なものであるとの認識を示した。 「公共の福祉(public welfare)は、善良な市民にさえその生命を犠牲にすることを求めることがある。にもかかわらず、我々の存在が無能力者によって淘汰されることを防ぐために、これまで国力を衰弱させてきた者たちに対して、不妊手術というわずかな犠牲さえ求められないとしたら、それは奇妙なことであろう。しかも、そうした者たちは、それを犠牲だと感じることは少ない。能力の退化した子孫が罪を犯して処刑されるような事態が起こらないように、あるいは『知恵遅れ』(imbecility)のゆえに飢えることがないように、明らかな無能力者については、彼らの種を断つことができるのであり、それは全世界にとって望ましいことでもある。予防接種の強制も許されているのであるから、同じ理屈で不妊手術も許されるのである。」 ・ホームズは、思想の自由や表現の自由、労働者の権利の保護に敏感なリベラリストの側面を持つとともに★5、経験によって裏付けられた判断と直観が法を形成すると考えるプラグマティックなリアリストであったと評価されている★6。ホームズの中で、知的障害者は国力を衰弱させる存在であり、不妊手術を施しても、それは本人と社会を守る「予防接種」に過ぎないとの判断が、知的障害者の権利を擁護すべきとの判断よりも勝ったことは、人権思想は必ずしも優生思想と対立し、これを排除するものでなく、場合によっては自由と平等を基調とする憲法秩序に受容されうるものであることを示している★7。 3.優生思想が憲法(学)に受容されてきた要因 ・優生思想の5要素のうち、@Aの要素は憲法を支える人権思想と根本的に矛盾する。 ・しからば、なぜ優生思想は憲法(学)によって排斥されなかったのか? 3-1.優生思想の“文化性” ・優生思想以外の差別思想が、敵意や野蛮さを感じさせるのに対して、優生思想はそれが巧に隠蔽されており、むしろ発展・向上・進化・衛生・健康・慈愛といった“文化性”・“人間性”を身にまとってきた。 ・そうした価値観は、憲法秩序とも通じるものがあるため(e.g.「健康で文化的な最低限度の生活」)、憲法(学)に受容されてきた★8。 (旧優生保護法が定めていた優生学的な妊娠中絶について)「・・・優生学的適応による妊娠中絶にあっては、そこに規定している精神病者、精神薄弱者、精神病質者、遺伝的身体疾患者、遺伝的奇型者、癩患者の増殖を防止して健康で明るい社会を維持し実現しようとすることを目的とするものであ・・・る。いずれにしても、社会の一般的な評価においては、悪質者の増殖よりも、健康で明るい社会の維持・実現の方が一層価値が大であ・・・るから、・・・その一層大なる価値を保護するために小なる価値を犠牲にすることはやむをえないという理由で妊娠中絶の違法性が阻却せられ、適法なものと判断せられるというのが、・・・刑法的な考え方である★9。」 (戦前の)「国民優生法は、“たてまえ”としては『国民素質の向上を期することを目的』としているのである。これは戦時下であろうと平和憲法下の戦後であろうと、なんぴとも否定しえない錦の御旗である。“たてまえ”としては、時代を越え国境を越えてアッピールするものであった★10。」 3-2.優生思想の“科学性” ・法律学は優生思想の有するBCDのような、一見すると科学的言説に思える理屈に対しては、謙譲の姿勢を見せることが多い。(cf. 原発訴訟、公害訴訟) ・被害者の現実的な苦しみという不合理よりも、“科学的合理性”を尊重する思考傾向が、結果として@Aの差別的要素を是認してきたのではないか。 3-3.人権思想と優生思想の共鳴 ・他方、憲法や人権思想と優生思想は、矛盾するものではなく、むしろ両者は共鳴するものであるとの指摘もある。 ・石埼学は、この共鳴関係(共犯関係?)を「人権の抑圧仮説」(=人権概念が前提とする人間像・個人像の中に、それに合致しない人間を抑圧する契機が内在している)を用いて暴いた★11。 ◇人権の抑圧仮説 [1] 人権の中核的機能は公権力に対峙し、人々の自由を保障することである。 [2] 人権の主体は、公権力と対峙しうる主体的・自立的・理性的・自律的人間(=「市民」)であることが前提とされる。 [3] したがって人権思想は、「市民」とはなり得ない者を差別化し、市民社会を守るために彼(女)らを矯正・排除する契機を含む。(⇒女性・外国人・子ども・障害者等の排除) ・人権の抑圧仮説によれば、優生思想は[3]の一形態といえる。 ・石埼は、[3]の土台となる[1][2]の人権観・人間観は、有力な憲法学説(芦部、佐藤、樋口、奥平、長谷部等)に通底しており、市民的公共圏論や熟議民主主義論などにも見られると指摘する。 3-4.憲法学(者)の人間観 ・憲法ないし立憲主義が想定する人間像・個人像は、憲法13条の「個人」の解釈をめぐって論じられてきた。 憲法13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 ・従来の憲法学説は、13条によって尊重される「個人」として、理性的・自律的な個人を想定してきた。その代表的なものは、樋口陽一による「強い個人」論である。 「・・・人権の観念は、身分制共同体から解放された意思主体としての個人、自己決定をし、その結果に耐えることのできる自律的個人を想定していた、ということが重要なのである★12。」 ・人権主体には理性が伴っているとの前提的認識は、国際人権法にも共通する。 世界人権宣言1条 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。 4.優生思想を憲法(学)から切り離すために ◇方策@:上記[1][2]を修正することによって、[3]の危険を消去する 従来の[市民=理性的個人=人権主体]という認識枠組みから排除されてきた無権利状態の「弱い個人」も人権主体=「市民」に含め、あらゆる人は、ただ存在するという理由だけで「市民」として承認され、人権が保障されると捉える★13。 ◇方策A:上記[1][2]は残したまま、[3]の危険を消去する A−1:優生政策違憲論 [市民=理性的個人=人権主体]という認識枠組は維持しつつ、それと優生政策を切り離して考え、優生思想に基づく優生政策を憲法に反する差別行為として排除する★14。 A−2:特別権利保護論 最小限の程度において理性的な判断能力を備えている者=「一人前の人間」=人権主体という認識枠組みを維持した上で、「一人前でない人びと」(e.g. こども、高齢者、障害者)に対しては、人権の配分が少なくなった分だけ、それぞれの特殊事情に適合的な特別な権利が保障されなければならない★15。 ・伝統的な立憲主義における人権の対国家性や「切り札」性の価値を考慮すれば、「強い個人」という擬制ないしフィクションの有用性は無視できない。他方、そこに優生思想的な二分論と差別思想が入るこむ余地があることも否定できない。 ・この問題を解くにあたって、[3]を許さない制度論・政策論を打ち立てることによって、遡って[1][2]が有する差別性のコントロールを図れないか? ・この際に参考になるのが、奥平の「よき統治」論である★16。 ◇「よき統治」論 人権保障のためには「よき統治」(=@権力統御のための民主主義+A権利保障のための「よき制度」)が必要。 権利保障のための制度は、権利を侵害された者が異議申立てをする(=権利を行使する)ことを通じて軌道修正され「よき制度」になっていく。 ・しかし、優生政策の対象となってきた人びとは、少数者であるがゆえに民主主義的な権力統御に期待できず、「よき制度」を求める異議申立てにも困難を伴う。  ⇒「よき統治」から排除されるがゆえに、人権保障を受けられない。 ⇒ 障害者等を「よき統治」のサイクルに組み込むための制度論・政策論の必要性 e.g. (1)「市民」としての障害者等の可視化(e.g. 障害者パリテ) (2) 選挙権・被選挙権行使の容易化 (3) 異議申立制度の拡充(e.g. 障害者差別のための救済機関・救済手続の整備) (4) 独立した国内人権機関の設立 ・「よき統治」のサイクルの中に障害者を組み込むことによって、人権思想に内在する「毒」を中和していく。(「概念の補正による制度の改革」ではなく「制度の改革による概念の補正」) 5.新たな優生思想? 5-1.出生前診断と障害を持つ胎児の選択的中絶手術 ・医学の発展によって可能となった出生前診断や、その診断結果に基づいて障害を持つ胎児に対して選択的な妊娠中絶手術を行うことは、新たな優生思想に基づく新たな優生政策なのか?★17 ●出生前診断に基づく選択的妊娠中絶を是とする思考様式 @’人間の優劣二分化 人間には「優れた人間」=健常者と「劣った人間」=障害者がいる。 A’優劣の識別可能性 両者は客観的に識別可能である。 B’識別基準としての遺伝形質 両者の識別基準は、遺伝形質における「障害」の有無である。 C’選択的妊娠中絶の実施 「障害者」の遺伝形質を有する胎児は、(母)親の意思で中絶することができる。 D’目的としての生殖の自由 選択的妊娠中絶の目的は、(母)親のリプロダクティブ・ライツ「産まない自由」の保障、および(母)親が考えるところの「生まれくる子の福祉と幸福」の確保である。 ・出生前診断に基づく中絶を是とする思考様式@’〜B’は、優生思想の要素@〜Bに符合するが、思考様式C’D’は、優生思想の要素CD(=公益実現を目的とした優生思想の政策的実施)とは必ずしも符合せず、むしろ個人の産む自由・産まない自由や、自己決定権の保障が強調される。 5-2.自己決定権は障害児忌避の選択的中絶手術を正当化するか? ・自己決定権に基づく選択的中絶は、優生思想の要素@〜Bを正当化できるか? ◇肯定論@:自由主義的優生論 集団に対する政策的な遺伝的改変と、個人が行う遺伝的改変は区別すべきであり、親が自分の子どものために自発的に行う優生的措置は、親が子どもに自由な教育を施せるのと同様に、親の自由として認められるべきことであって、何ら倫理的に非難されるものではない★18。 優生的措置が非難に値するかは、それが特定の人種・民族への差別を意図しているかどうか、あるいは根拠のない「生殖の自由」の剥奪に当たるかどうかという正義の配慮にかかっており、親が子どもの福利のために行う優生的措置は「生殖の自由」の一環として正当化できる★19。 ◇肯定論A:民主主義的優生論 科学技術それ自体について善悪の区別をすることはできず、それが善用されるか、悪用されるかは、政治的決定に依存している。 したがって、バイオテクノロジーの提供する手段を利用するべきか、規制すべきかは、それがもたらすメリットとデメリットに基づいて評価し、政治共同体が民主的に決定するほかはない★20。 ・仮に自由主義的優生論が、「障害者は劣った人間であり、生まれて来ない方が良い」と考え、その意思を中絶手術という形で実現することさえも個人の自由の一環として保護されるべきことを主張するのであれば、観念的には「差別意識に基づく排除」を肯定することとなり、人権思想や立憲主義思想と鋭く対立することとなる。 ・また、自由主義的優生論は、「生殖の自由」の許容範囲の画定に際して、民主主義的優生論と結びつく傾向が強いが、これを突き詰めれば、個人の自由の領域を離れて、政策的に障害者排除を許容することにつながり、旧来型の優生思想と優生政策を肯定するものとなるおそれがある。 ・これに対して、出生前診断に基づく中絶を非とする立場からは、そもそも上記の思考様式@’〜B’が認められないことが主張される。 ◆否定論@:生命権論 個人の尊重は、選別不可能な他者のいる世界を受容することを前提としている。 他者が選別不可能である以上、個人の尊重とは、ただ単にその人が存在すること(=生命を宿していること)を受け入れ、保障することを意味する。 生命に対する権利は、自己決定能力に依存することはなく、したがって自己決定能力に欠けることを理由として、生命に対する権利を制約することはできない★21。 ・生命権論は、他者の選別不可能性を説くことによって、上記思考様式@’A’B’を否定した上で、胎児を含めたすべての生命に生命権を保障することを説くが、これに対しては、「4」で論じた人権主体の要件の問題が問われることになる★22。上で述べたとおり、人権主体として旧来の「個人」を措定する本報告の趣旨からすれば、生命権論は出生前診断に基づく選択的中絶を否定する主張としては、説得力に欠けることとなる。 ・人権主体として旧来の「個人」を想定しつつ、選択的中絶の不当性を主張するためには、選択的中絶は個々の障害者あるいは胎児の権利ではなく、「範疇としての障害者」の権利を侵害すると説く「範疇としての障害者」論が参考になる。 ◆否定論A:「範疇としての障害者」論 女児であることを理由とする選択的中絶が、「範疇としての女性」の人権を侵害する行為として許されないのと同様に、障害を理由とする選択的中絶は、障害者を「健常者」よりも劣位に扱うことであり、「範疇としての障害者」の人権を侵害する行為である★23。 したがって、障害を理由とする選択的中絶を法律で禁止することは憲法上許される★24。 ・この考え方は、個別の差別事象の救済だけではなく、差別の構造的要因の解消を目指す反従属原理とも親和的である。 ◆否定論B:反従属原理 一定のカテゴリーに属する人びとを別異に取り扱うことによって、それらの人びとの権利利益を侵害することだけを差別と捉える(=反別異原理)のではなく、それらの人びとの社会における位置づけを格下げし、劣等であるとの烙印(スティグマ)を押しつけることも差別と捉え、スティグマを軽減・除去していかなければ、差別の解消を図ることはできない★25。 ・反従属原理に基づけば、出生前診断とそれに基づく障害をもった胎児の選択的中絶が、「障害者は劣った人びとであり、生まれてこない方がよい人びと」というスティグマを押しつける効果を持つのであれば、差別に該当することになる。 5-3.「範疇としての障害者」へのスティグマを除去するために ・「範疇としての障害者」に対する差別を解消するためには、「4」で述べた「よき制度」「よき統治」の構築が必要になるが、その憲法上の論拠を提示するものとして、「差別抑制」要請論が参考になる。 ◆「差別抑制」要請論 憲法14条1項の「すべて国民は、・・・差別されない」とは、@国家機関は差別感情に基づいて行動してはならない、A国家機関は意図せざる差別的メッセージの発信について誠実に対応しなければならないとの要請を規定する条項である★26。 ・この見解に基づけば、「障害をもった者は生まれてこない方がよい」という差別的メッセージを発信することにつながる選択的中絶について、国家機関は慎重かつ誠実に対応すべきことが要請される。 5-4.判例に見る出生前診断に基づく選択的中絶手術 ・しかし、出生前診断をめぐる訴訟において、裁判所はそれが障害者に対するスティグマにつながるものであるとの認識を積極的には示していない。 ◆事例@:先天性風疹症候群事件東京地裁判決★27 ・風疹に罹患した妊婦が、先天性風疹症候群の危険性について、十分な説明を受けられなかったために、出生児に障害が生じたとして、病院設置者の国に対して損賠賠償を求め、認容された事件。(控訴棄却の上、確定) 「原告らは、・・・医師の過失により原告・・・が妊娠を継続して出産すべきかどうかを検討し、適確な決断をする機会を奪われ、その結果、思いがけなく先天性風疹症候群という異常を有する子・・・を出産することとなり、健康児の出産では考えられないような精神的、肉体的、経済的な苦痛を蒙つたと主張する。・・・原告らがこのような損害を蒙つたことは優に首肯し得る。」「・・・原告らは生まれる子の親であり、その子に異常が生ずるかどうかにつき切実な関心や利害関係を持つ者として、医師から適切な説明等を受け妊娠を継続して出産すべきかどうかを検討する機会を与えられる利益を有していたと言うべきである。また、この利益を奪われた場合に生ずる打撃の大きさを考えれば、右利益侵害自体を独立の損害として評価することは十分可能である。」 ・この判決は、出生前診断に関するものではないが、障害を持った子どもを持つことに伴う負担を重大視し、「妊娠を継続して出産すべきかどうかを検討する機会」が法的に保護される利益になることを示したリーディングケースとなった。しかし、そうした中絶手術の是認が、障害者に対するスティグマを助長することに対する警戒はまったく見られない。 ◆事例A:出生前診断拒否事件京都地裁判決★28 ・出産前に羊水検査等の実施を依頼したにもかかわらず、医師がこれに応じず、結果としてダウン症の子どもを出産することになったとして、両親が医師に損害賠償を請求した事件。請求棄却。(控訴後取下げ) 「・・・近年、胎児異常の原因についての知識と診断技術が進歩したことによって、出生前診断を利用して胎児の染色体異常の有無の診断を受ける妊婦も多くなり、染色体異常児の臨床症状の深刻さ及び両親の被るべき負担の大きさから、人工妊娠中絶に対する考え方や法律が影響を受けつつあることは否定できない。」「・・・羊水検査は、染色体異常児の確定診断を得る検査であって、現実には人工妊娠中絶を前提とした検査として用いられ、優生保護法が胎児の異常を理由とした人工妊娠中絶を認めていないのにも係わらず、異常が判明した場合に安易に人工妊娠中絶が行なわれるおそれも否定できないことから、その実施の是非は、倫理的、人道的な問題とより深く係わるものであって、・・・産婦人科医師には検査の実施等をすべき法的義務があるなどと早計に断言することはでき」ず、「・・・出産準備のための事前情報として妊婦が胎児に染色体異常が無いか否かを知ることが法的に保護されるべき利益として確立されているとは言えないから、・・・原告らの主張は到底採用できない。」 ・この判決は、「染色体異常児の臨床症状の深刻さ及び両親の被るべき負担の大きさ」を根拠に、出生前診断に一定の意義があることを認めつつも、「優生保護法が胎児の異常を理由とした人工妊娠中絶を認めていないのにも係わらず、異常が判明した場合に安易に人工妊娠中絶が行なわれるおそれも否定できないこと」を理由に、「妊婦が胎児に染色体異常が無いか否かを知ること」の権利性を否定した。本判決は、選択的妊娠中絶には「倫理的、人道的な問題」が含まれていることも指摘するが、しかし、それが「範疇としての障害者」のスティグマにつながるとの認識は薄い。 ◆事例B:出生前診断結果誤報告事件函館地裁判決★29 ・羊水検査の結果を医師が誤まって報告したことにより、妻が中絶の機会を奪われてダウン症児(出生後3ヵ月余りで死亡)を出産したことなどを理由として、検査を依頼した夫妻が医師及び医療法人に損害賠償を請求し、認容された事件★30。(確定) 「羊水検査の結果、胎児に染色体異常があると判断された場合には、母体保護法所定の人工妊娠中絶許容要件を弾力的に解釈することなどにより、少なからず人工妊娠中絶が行われている社会的な実態があることが認められる。」「しかし、羊水検査の結果から胎児がダウン症である可能性が高いことが判明した場合に人工妊娠中絶を行うか、あるいは人工妊娠中絶をせずに同児を出産するかの判断が、親となるべき者の社会的・経済的環境、家族の状況、家族計画等の諸般の事情を前提としつつも、倫理的道徳的煩悶を伴う極めて困難な決断であることは、事柄の性質上明らかというべきである。」「原告らは、生まれてくる子どもに先天性異常があるかどうかを調べることを主目的として羊水検査を受けたのであり、子どもの両親である原告らにとって、生まれてくる子どもが健常児であるかどうかは、今後の家族設計をする上で最大の関心事である。また、被告らが、羊水検査の結果を正確に告知していれば、原告らは、中絶を選択するか、又は中絶しないことを選択した場合には、先天性異常を有する子どもの出生に対する心の準備やその養育環境の準備などもできたはずである。原告らは、被告の羊水検査結果の誤報告により、このような機会を奪われたといえる。」 ・この判決は、A判決とは対照的に、「胎児に染色体異常があると判断された場合には、母体保護法所定の人工妊娠中絶許容要件を弾力的に解釈することなどにより、少なからず人工妊娠中絶が行われている社会的な実態があること」を認めた上で、中絶選択権の権利性を認めた。選択的中絶を行うか否かの判断が、「倫理的道徳的煩悶を伴う極めて困難な決断」であるとしている点はA判決と同様であるかのようも見えるが、しかし、A判決が選択的中絶のもたらす問題を「倫理的、人道的な問題」と表現して、その性質を一般化しているのに対して、本判決は「倫理的道徳的煩悶」と捉えることによって、これを親の内心の問題に限定している。むしろこの判決は、親の自己決定権に重きを置く点において@判決の判断に近似しており、その結果、出生前診断のスティグマ性に対する認識はA判決よりもさらに希薄になっているといえる。 ・上記の3判決は、いずれも「障害をもった胎児は中絶されてしかるべき」という差別的メッセージを積極的に発するものとはいえないが、障害者に対するスティグマへの認識が薄いという共通点を有する。裁判所は、出生前診断が単に倫理的・道徳的問題を内包するだけではなく、障害者に対する意図せざる差別的メッセージを発信するおそれがあることに注意を向けるべきであろう。 6.まとめ ・旧来の優生思想と新たな優生思想は、「国家・社会の利益」のための障害者排除か、「個人の利益」のための障害者排除か、という差異はあるものの、優生思想の要素@AB(=遺伝形質による人間の優劣の選別可能性)は共通している。 ・個人の利益のための排除が、社会的利益のための政策的排除に敷衍化され、拡大することのないよう、人権思想は個人の「産む自由・産まない自由」を是認しつつも、新旧の優生思想を峻拒すべきであろう。 ・その際には、優生思想に関わらない場面では個人の「産む自由・産まない自由」を優先しつつ(e.g. 多胎妊娠における減胎手術)、優生思想的なメッセージを発信するおそれのある場面では、「産む自由・産まない自由」に制約を課すことが必要になる★31。(ただし、制約に対する代償措置も検討する必要があろう。)また、「4」で挙げた「よき制度」「よき統治」の拡充によって、制度改革による差別の緩和に努めることも不可欠である。 ・生命学の提唱者である森岡正博は、優生思想との闘いにおいては、われわれが内なる優生思想に流されがちな存在であることを正面から認めた上で、しかし、そこで開き直ることなく、優生思想と対峙し続けることの重要性を説いている。そして、優生思想との闘いにおいては、@個人の生き方の次元、A言論の次元、B政治や立法の次元における闘いを同時に進めなければならないと主張する★32。 ・障害法学には、このうちBにおける闘いをサポートする法理論や政策論の提供に寄与することが求められよう。 ★注 1) 棟居快行「優生保護法と憲法学者の自問」法時90巻9号(2018年)1頁。 2) 石埼学『人権の変遷』(日本評論社、2007年)66頁。 3) Buck v. Bell, 274 U.S. 200 (1927). なお、判決は8対1の多数決であり、保守派のバトラー判事が唯一反対したが、反対意見は付されなかった。 4) 同事件の経緯や背景事情等については、ダニエル・J・ケヴルズ/西俣総平(訳)『優生学の名のもとに−「人類改良」の悪夢の百年』(朝日新聞社、1993年)192頁以下、秋葉聰・篠原睦治「『バック対ベル訴訟』とは何か−ケアリー・バックゆかりの地を訪ねて」日本社会臨床学会(編)『「新優生学」時代の生老病死』(シリーズ「社会臨床の視界」第3巻)(現代書館、2008年)218頁以下参照。 5) シュヴィマー事件(United States v. Schwimmer, 279 U.S. 644 (1929))におけるホームズの反対意見「我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由ではなく、我々の憎む思想のために自由を認めることが、最も重要な憲法原則である」は有名である。 6) 田中英夫『英米法総論 上』(東京大学出版会、1980年)314?315頁、伊藤正己・木下毅『アメリカ法入門〔第5版〕』(日本評論社、2012年)242?243頁。 7) 同様に、石埼学「精神障害者と憲法−精神保健福祉法を中心に」障害法2号(2018年)115頁以下、および保条成宏「生命の刑法的保護と障害者−ドイツと日本における優生思想の展開に着目して」障害法2号(2018年)55頁以下は、ワイマール憲法下の民主的なドイツにおいて、優生思想が広がったことを指摘している。 8) 同旨、石埼・前掲注2) 71頁以下。 9) 木村龜二「胎児の生命権と優生保護法」法学セミナー140号(1967年)63?64頁。 10) 村松博雄「優生保護法と人権」ジュリスト548号(1973年)48頁。 11) 石埼・前掲注2) 3頁以下。 12) 樋口陽一「人権主体としての個人−“近代”のアポリア」憲法理論研究会(編)『人権理論の新展開』(敬文堂、1994年)23?24頁。なお、樋口は、このような個人像は、権力を持たない弱者が、それでも権力に対して権利を主張できることを説明するための擬制=フィクションに過ぎないとする。(樋口陽一『国家学−人権言論〔補訂〕』(有斐閣、2007年)66頁以下。) 13) 石埼・前掲注2) 58?65頁。同旨、笹沼弘志「権力と人権−人権批判または人権の普遍性の証明の試みについて」憲法理論研究会(編)『人権理論の新展開』(敬文堂、1994年)31頁以下、小畑清剛『「一人前」でない者の人権−日本国憲法とマイノリティの哲学』(法律文化社、2010年)183頁以下、棟居・前掲注1) 3頁。 14) 村山史世「優生政策と憲法学−デモクラシーから排除された不可視の市民」憲法理論研究会(編)『立憲主義とデモクラシー』(敬文堂、2001年)87頁以下。 15) 奥平康弘「“ヒューマン・ライツ”考」和田英夫古稀記念『戦後憲法学の展開』(日本評論社、1988年)117頁以下。 16) 奥平康弘『憲法V−憲法が保障する権利』(有斐閣、1993年)88頁以下。 17) 母体保護法には、胎児の障害・疾患を理由とする中絶を許容する条項(いわゆる胎児条項)は存在しないが、現実には同法14条1項1号が定める「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」という要件を緩やかに解して、選択的中絶が実施されている。なお、胎児条項を含む他国の出生前診断に関する法制度については、安井一徳「諸外国における出生前診断・着床前診断に対する法的規制について」調査と情報779号(2013年)1頁以下参照。 18) Arthur L. Caplan et al., What is Immoral about Eugenics?, British Medical Journal, vol.319(7220) (1999), p.1282ff. 19) 桜井徹『リベラル優生主義と正義』(ナカニシヤ出版、2007年)3頁以下。 20) 桜井・前掲注19) 21頁以下。 21) 中山茂樹「共に生きるということ−生命倫理政策と立憲主義」山崎喜代子(編)『生命の倫理−その規範を動かすもの』(九州大学出版会、2004年)139頁以下。 22) この問題に関して、いわゆるパーソン論と種の尊厳論の対立がある。パーソン論は保護される生命の要件として「機能する脳」を挙げ、ゆえに胎児の生命権を否定するが、種の尊厳論は、自己決定能力を問うことのできない出生前の生命も尊厳を有するものとして法的保護の対象になるとする。パーソン論については、長谷部恭男「憲法学から見た生命倫理」『憲法の理性』(東京大学出版会、2006年)150頁以下、種の尊厳論については、青柳幸一『憲法における人間の尊厳』(向学社、2009年)183頁以下、213頁以下、315頁以下参照。 23) 笹原八代美「選択的人工妊娠中絶と障害者の権利−女性の人権の問題としての性選択との比較を通して」先端倫理研究2号(2007年)160頁以下。 24) 青柳・前掲注22) 164頁以下。 25) 安西文雄「憲法14条1項後段の意義」論究ジュリスト13号(2015年)71頁以下、同「法の下の平等」宍戸常寿ほか(編)『憲法学読本〔第3版〕』(有斐閣、2018年)102頁以下。 26) 木村草太『平等なき平等条項論−equal protection条項と憲法14条1項』(東京大学出版会、2008年)177頁以下。 27) 東京地判昭和58年7月22日・判時1100号89頁。 28) 京都地判平成9年1月24日・判時1628号71頁。 29) 函館地判平成26年6月5日・判時2227号104頁。 30) この事件を題材にしたノンフィクション作品として、河合香織『選べなかった命−出生前診断の誤診で生まれた子』(文藝春秋、2018年)がある。同書によれば、原告らが提訴に至った主たる目的は、自らへの損害賠償ではなく、「誤診によって望まぬ生を受け苦しんだ」子どもに対する損害賠償を求めることであったという。この点、判決では、羊水検査結果の誤判断と子どもの死亡との間には、因果関係が認められないとされた。 31) 例えば、蔵田伸雄は、選択的中絶に課すべき許容要件として、@可能な限りの治療を施しても、生まれてくる子どもに耐えがたい肉体的苦痛があることが予想される、A生まれてくる子どもの疾患に対する治療法・予防法がない、B可能な限りの治療を行っても、子どもが生後数年以内に死に至ることがほぼ確実である、C両親が十分な説明をうけた上で中絶を強く望み、さらに担当の医師等もそれを了承している、という4条件をすべて充足することを挙げる。(蔵田伸雄「選択的人工妊娠中絶の倫理的許容条件」生命倫理8巻1号(1998年)39頁。 32) 森岡正博『生命学に何ができるか−脳死・フェミニズム・優生思想』(勁草書房、2001年)354頁以下。